「栞」  玉珠は藤次郎とつきあい始めてもうかれこれ5年になる。  二人とも結婚を前提にしているのだが、5年も一緒にいるとプロポーズの言葉を 言い出すきっかけをお互い失って、そのままずるずると今日までに至っている。  親からもけしかけられた事もあり、玉珠は結婚を決意するが、どう言いだした物 か困ってしまった。玉珠としては、どうしても藤次郎にプロポーズの言葉を言わせ たい。  古本屋に売ろうと本を整理している内に、見つけた古い小説…これは、二人とも 好きであった物語であり、よく二人して物語に浸った物だった…を見つけ、これを 利用して藤次郎に逆にプロポーズさせてやろうと思いついた。  早速、言わせたい台詞を探し出し、電話で藤次郎を呼び出そうとしたが、彼はいっ こうに捕まらない。  携帯電話も、彼の持っている物は今時まだPHSなので、電波が届かない所に居 るようだ…実は藤次郎は、その晩悪友達とコンパに出かけていて、わざとPHSの 電源を入れていなかった…  一晩中、藤次郎からの電話を待った玉珠は、逆上してしまい、朝一番で藤次郎を 電話で捕まえ、会社が終わったらいつもの公園に来るように言いつけた。  玉珠の突然でしかも並ならぬ口調から、何があったのかと驚いた藤次郎は、その 日仕事もろくに手に付かなくて、退社時間になると慌てて指定された場所に駆けつ けた。そこには、既に玉珠が居た。  「まっ…た?」 と、息付く暇もなく荒い息で言う藤次郎に対して、玉珠は無言でジロリと見据える と、いきなり藤次郎のシャツの襟首を両手で掴んだ。  その玉珠の突然の行動に異様な物を感じ、一瞬たじろいだが、何とかその場を取 り繕おうとして、  「どっ、どうかしたか?」  「…」  「なにがあった?」  「…」  玉珠は藤次郎の問いかけに何も答えず、ただ藤次郎の目を睨み続けていた。  その瞬間、藤次郎は彼女の無言の訴えの理由が、夕べの事ではないかと考え、何 とかこの場をごまかして切り抜けられない物かとあれこれ考えた。そして、藤次郎 は黙って自分の襟首をつかんでいる玉珠の両の手をとり、玉珠が手を離すと、手で 玉珠の手をそっと握らせて、その手を包み玉珠の口元に寄せた…その間、玉珠は何 がなんだか判らずに藤次郎の意のままにされていた。  藤次郎は静かに玉珠の手を包んでいた手を離すと、  「はい、笑って!」 と、にこやかに首を少し傾けながら、軽い口調で言った。  突然の事なので、玉珠はつられてしまい、その格好のまま言葉に従って思わずニッ コリと微笑んでしまった。  「やっぱり、お玉はその顔が一番だ!」 と言う藤次郎の言葉に、さっきまでの怒りがふと吹き飛んでしまって、  「そ…そう?」 と、素直に喜んでしまった…その隙に藤次郎は玉珠から逃げようと思い、  「じゃ、そう言うことで…」 と藤次郎も微笑んだままきびすを返し、立ち去ろうとしたが、  「…オイ!」 と、我に返った玉珠に襟首を捕まれた。  「ワハハハ…」  照れ笑いする藤次郎に、  「甘い!」 と、一言冷たく言い放つ玉珠であった…  「ねえ…」 と、急に甘えた声で背中越しに首に手を回す。玉珠のCカップの胸の膨らみが背中 に当たるのが心地よい…そして素早く玉珠は藤次郎の首を素早く締め上げる。  「グゲッ!」  「昨日の晩、どこをほっつき歩いてたの?いくら電話しても留守電になっていた わよ!」  次第に語気が荒くなる玉珠の言葉に、藤次郎は彼女がかなり怒っていることを再 認識したが、悪友達との友情という勝手な大義名分の名の下にある玉珠への後ろめ たさが、一層誤魔化そうとする態度につながった。  「なっなにが?」  「まだ、しらを切る気?」 と、そのまま体を藤次郎の前に移動し、ヘッドロックの体勢になった。玉珠の胸の 膨らみが、頬に当たって気持ちいいやら、苦しいやら…  「男には、女に判らぬ約束がある。いかねばならぬぅ〜いかねばらぬぅ…」 しかし、あまりの苦しさについポロリと口を滑らせてしまった。  「なに、三波春夫の歌みたいな事いってんの!」 と、玉珠は一向に意に介さないで、藤次郎の首を絞める力を一層強めた…  「クッ…クルシイ…」  閉まる首に逆流する血液で顔を紅潮させながら藤次郎はジタバタともがいたが、 玉珠はその手を離すどころか、藤次郎の首を締め上げている力を弛めようともしな かった。  「…ワッ…ワカッタカラ、アヤマルカラ…」 としどろもどろに言う藤次郎に対して、玉珠はニコリと笑って、  「あら…別に謝らなくてもいいわよ」 と猫なで声で言うと、にわかに藤次郎の首を絞めていた腕を外し、藤次郎の前に回 り込むと、一冊の本をハンドバックから取りだして、  「読んで」 と、藤次郎に差し出した。左手で首をさすりながら、右手で玉珠の差し出した本を 受け取ると、その本には栞が挟んであった。  「その栞のページをめくって…そこの赤線を引いてあるところ…」 と、玉珠が指示するままに本を開き、赤線を引いてある箇所の文字を読みとると、 藤次郎は絶句してしまった。  …そこには、  『好きだ、大好きだ!大きな声で言える。僕たちは星になって結婚しよう!!僕 たちの結婚をきっと星達が祝福してくれるだろう…』 と言うような歯の浮く台詞が書かれてあった。  「声を出して、読んで!」  玉珠はやや命令調に言った。藤次郎は突然のことに訳が分からず戸惑っていると、  「ねぇ、早く読んで!!」 と今度は口調も強く命令した。藤次郎が嫌々読もうとすると、  「…気分…出してね」 と今度は甘えた口調で言った。でも、藤次郎にはそれは半分脅しに聞こえた。  「『すっ、好きだ、大好きだ!大きな声で言える。ぼっ、僕たちは星になって結 婚しよう!!僕たちの結婚をきっと星達が祝福してくれるだろう…』」 と藤次郎が読み終えると、藤次郎は本をパン!と音をたてて閉じると、すぐさま本 の表題を見た。本の表題は昔のアニメーションをノベライズした物であった。  「…どう?」  「”どう”って…何が?」  「読んでみて、なにか感じない?」  「うーーん」 と藤次郎が唸ると。  「なによ!!」 と玉珠はむくれて藤次郎に背を向けてしまった。  玉珠の態度にオロオロしてしまったが、改めて本の表題を見て、この物語が二人 の好きな物であり、よく二人して語り合っていたのを思い出し、藤次郎はそこで初 めて、この本を読ませた玉珠の意図が解った。  「うーーん、俺ならもっと気の利いた台詞を言うぞ」 と言うと、玉珠はクルリと振り返って、腰を少しかがめ上目使いに藤次郎を見上げ ると、  「じゃ、なんて言うの」 と言う玉珠の目にはこれから藤次郎が言う事に対しての期待の色が出ていた。  藤次郎は「うーーん」と天を仰いで考え込んだが、やがて目に入った満月を見て 閃き、玉珠両肩に手を置きじっと顔を見据えると、  「月の光の元に照らされた、君の笑顔。日の光の下では僕には眩しすぎて見据え ることが出来ない…月の光に照らされた微笑む君の瞳は、日の光の中とは違い、時 には妖しく、時には慈悲に満ちている。まるで東大寺の月光菩薩の様に…万人に対 するその微笑みをいつまでも独り占めできたら、私はどんなに嬉しいことか…」 と、一気に藤次郎は言ったが、その台詞は先程の本の台詞より気が利いていなくて、 言った後から赤面してしまった。  「…まっ…まぁまぁじゃない」 と笑いながら言う玉珠の顔には朱が挿していた。  「これが、精一杯…」 と藤次郎が苦笑いをすると、  「…でも、結婚してって言っていないわよ!」 と、半分睨み付ける目をして言った。そこで、はたと藤次郎は固まってしまった。  「あ…うっ」  「どう…するの?」  あまり藤次郎を追いつめるのは可哀相と思ったのか、玉珠は妖しい目つきをしな がら藤次郎に対して半身になり、肩を藤次郎にすり寄せた。  思い直した藤次郎は、そのまま玉珠を抱きしめて、  「…じゃあ、さっきの返事は?」 と気を取り直していった。その言葉に  「さっき…って?」 と言いながら、玉珠は首だけを藤次郎に向けて藤次郎を見つめた。  「君の微笑みを僕に独り占めにさせてくれる?」 と、微笑しながら言う藤次郎に対して  「…いいわよ…でも、私の微笑みはあなただけのものではなくて、私たちの子供 達にもあげるものよ」  あらためて藤次郎に向き直った玉珠に一本取られたと思ったが、  「…それは、困るなぁ」 と照れ笑いをした。  「我が儘!」  玉珠は”いーだ”と言う顔をしてポツリと言ったが、その表情には明るく嫌みが なかった。そして、そっと藤次郎の首に手を回した。  「改めて言って」  藤次郎の首に力を掛けて、藤次郎の顔を自分の顔に近づけて玉珠は甘えるように 言った。  改めて、プロポーズの言葉を要求されると照れて真顔で見つめる玉珠の顔を見ら れなかったが、藤次郎の首に回した玉珠の手が藤次郎の首を押さえつけて動かさせ なかった。目だけがその視線を玉珠以外に流れていた。  「もぅ、目も逸らさないで!真剣に!!」 と半分怒ったような口調で言われて、藤次郎は覚悟を決めた。玉珠の目を見据える と、  「玉珠、結婚しよう!」  「…はい」 と言った玉珠の目にうっすらと涙が光っていた。 藤次郎正秀